「あの日、あの時、あの場所に座らなければ」
今更、そう後悔しても、何が変わるわけでもない。
だが、そう悔いざるを得ない出来事に私は遭遇した。
◇
私は、その日、そのとき、銭湯にいた。
いつもは人がまばらなその銭湯は、その日に限って、なぜだか混雑していた。
ホームポジションといえる私の定位置はすでに占拠されており、仕方なく、洗い場の中ほどに座らざるを得なかった。
隣には40歳代とおぼしき中年男性が、イスに腰掛け、身体を洗っていた。
ごくありふれた風景。
いつもと変わらない時間。
私は、そのときまで、そう思っていた。
◇
横の中年男性は身体を洗い終え、やおら湯船に向かっていった。
それを横目にしながら、私は身体を洗い始めた。
ゆっくりと、いつものように左腕から洗い始める。
そして、次は右腕だ。
私はまず右の手首を洗い始めた。
次は腕とばかりに、視線を、右に向けた、まさにその瞬間だった。
私は、ついに、それを見つけてしまったのだ。
いつもの光景は、その瞬間から、がらりと別のものに変わっていった。
◇
それは、突如、私の視界を捉えた。
つい数十秒前まで、中年男性を乗せていた「イス」だ。
そこに何かが付いていたのだ。
私は、そのイスの付着物、ただその一点だけを凝視していた。
シミかと思ったが、どうやら違う。
ねっとりした固形状の物体のようだ。
「味噌か?」
馬鹿な発想が瞬間、頭をよぎったが、その考えは、一瞬にして、どこかへ吹き飛んだ。
この物体が何なのか。答えは明らかだった。
私はえづきそうになるのをこらえ、別の空いている席に移った。
だが、すでにその鮮烈な映像は私の脳裏深くに強く焼き付けられ、忘れ得ぬ記憶となった。




by 今井裕治
コートが〝おしゃか〟